11月25日は三島由紀夫氏が自殺した日――果たしてホロスコープは何を物語っていたか

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48年前の今日、すなわち1970年11月25日は、作家の三島由紀夫氏(以下敬称略)が自衛隊の市ヶ谷駐屯地で割腹自殺した日だ。享年45才。そんなわけでなんとなくホロスコープを眺めて思いついたことをつらつら書いてみる。まあ三島氏に関してはこれまで研究され尽くしているので、単なるお茶濁し程度だけど。

三島由紀夫の生まれ

三島由紀夫(平岡公威)は1925年1月14日に東京・四谷で生まれている。父は農商務省の官僚、母は儒学者の娘といういわゆる“お坊ちゃん”で、家も借家であったにせよ近所では一番大きな家だったようだ。
【参照】wikipedia/三島由紀夫

三島由紀夫氏:出生ホロスコープ

三島由紀夫氏:出生ホロスコープ

彼が生まれた時、東の地平線=アセンダント(AC)には乙女座があって、月が上ろうとしていた。この月が彼の感性を豊かにしたのは言うまでもない。ちなみにこの月は強い意志を持ち、代表的存在になる資質を持っている――つまり彼の作品だけというわけでなく、彼自身が脚光を浴びることを意味するだろう。

また、この月は11ハウスのカスプに由来するので、将来に視点が向き、いいにせよ悪いにせよ彼の生き方や作風に反映されてはいなかったか――またそれが、将来を憂いての「自決」という選択に、まったく無関係とは思えない。

ちなみに先に書いておくが、三島由紀夫は火星の年令(36~45)になると突然、別のスイッチが入るということが、このホロスコープのひと目で分かるポイントになっている。

祖母の過保護→小学校ですでに天才

幼少期は祖母・夏子氏の絶対的管理下に置かれて育ったという。祖母は「2階で赤ん坊を育てるのは危険だ」と、公威を両親から奪い取り、1階の自室で育て、授乳時間でさえ管理し徹底的な過保護をしたという。ちなみに祖母の月も乙女座である。

さらに祖母は公威に男の子らしい遊びを禁じ、遊び相手にも年上の女の子を選び、しかも「女言葉」を使わせたという。これは三島氏のホロスコープで、水星のとなりに金星があることが暗示している。

この水星はACとMCのルーラーなので、人生を導く大事なパーツだ。その証拠に、学習院初等科(小学校)のころには、すでにその表現的才能はずば抜けていた。その頃に書いた作文は、とても小学生レベルとは思えない。ただ、これも祖母の教育おかげらしく、歌舞伎や文学などの素養を養えたことによるものだという。

だからといって、やたらに子供を過保護にすればいいというものではないのは常識だ。この場合は、生まれ持ったホロスコープの個性にうまくハマり、それを本人がポジティブに使えただけである。

金星の年令(16~25)――世に出る

学習院中等科5年(16才)のときに書いた「花ざかりの森」を、国語教師の清水文雄氏(国文学者)に送ったことがきっかけで「天才が現れた」と評判になり、文学誌『文藝文化』に掲載された。そのときにまだ少年であったことから、周囲がペンネームを考え「三島由紀夫」とした。

この作品を送った件だが、このとき金星の年令になっている。三島は清水氏に批評を請うために原稿を送ったらしいが、裏にはアピールの目的もあったのではないか――なぜならこの金星は自分をアピールする性質だからだ。

時代はすでに第二次世界大戦中だったが、公威は東京帝国大学(東大)法学部に推薦入学した。在学中に徴兵試験を受け、いよいよ部隊に動員されることになった折、偶然起こした気管支炎と発熱で帰された。しかし公威は自宅に戻ってから「特攻隊に入りたかった」とつぶやいた――これキーワード。

ちなみに、そのとき入隊予定だった部隊はその後フィリピンに派遣され、ほぼ全滅したという。

太陽の年令(26~35)――才能全開

1947年22才のときに東大を卒業し大蔵省に入省したが、執筆活動とのWワークによる過労で、通勤途中に線路に落ちてしまう。このことがきっかけで、それまで反対されたいた父から作家に専心する許しがもらえ、半年で大蔵省を辞めた。

1951年に入り26才、つまり太陽の年令に入った途端、意志のスイッチが入る。しかもこの太陽は5ハウス、これまで抑えていたものが解けて一気に吹き出す暗示だ。さらにこの頃、プログレスの月が12ハウス終わりにあり、アセンダントに向かっていた。

この年『群像』誌に「禁色」の連載を開始した。同性愛をテーマにした作品で、さすがに賛否を呼んだらしい。この太陽は12ハウスのカスプからきているので、彼の隠された内面に由来するものだ。

同時にこの頃から劇作家としても頭角を現して、本格的に実力を開花させていく。この太陽は山羊座なのでローカリティがあるので、国内外問わず題材を求めていろいろロケハンしてるし、そんな中であの「潮騒」も生まれた。

30才になるころ、三島は突然ボディビルに目覚め肉体改造に取り組み始める。後年、よく写真で見られる鍛え上げられた三島の姿は、この後のものであり、もともと彼は虚弱で痩せていて身体にコンプレックスがあった。しかしこの年令の頃は太陽とトランジットの海王星が90度になっていて、筋違いの方向にズレてしまうのである。つまり本業じゃない方向に。

またこの頃三島は「日本空飛ぶ円盤研究会」に入会したことなども話題になった。海王星的なものに興味がひかれるのだ。

ただし本業でも「金閣寺」などベストセラーを連発し、「5ハウス太陽」を思いっきり爆発させていた時代でもある。

火星の年令(36~45)――突然変異

火星の年令になると渾身の作「鏡子の家」が販売的には売れたものの、批評家からは失敗作と言われ落ち込む。

これに続く1960年台前半は、裁判沙汰になったり、脅迫を受けたり、文学座の分裂騒動があったりなど事件が続く。火星の年令になると突如、人生の流れが変わるという、ホロスコープの暗示どおりだ。

この火星の年齢において、三島の作品は2.26事件を題材にした「憂国」「英霊の聲」など、いつしか彼独特のナショナリズムのような思想を帯びていったのである。

そんな中で彼は、1966年に自衛隊に入隊を希望した。そんなナショナリズムは三島の中でどんどんエスカレートいき、ついには祖国防衛隊と称した「楯の会」を立ち上げるのである。

割腹自殺

1970年11月25日、三島は「楯の会」メンバーら4人とともに、自衛隊市ヶ谷駐屯地を訪れた。

あらかじめアポを取っていた益田兼利総監をとつぜん人質にして籠城した三島は、自らバルコニーに出て自衛隊員を前にし、決起を促す演説をぶち上げた。しかしこれはヤジの嵐だったらしい。

その後部屋に戻り、短刀で自分の腹を切って自殺した。
一緒にいた楯の会のメンバーが介錯をしたという。
【参照】wikipedia/三島事件

自宅の書斎には、遺書があったという。つまり三島はもともと死ぬ気だった。

冒頭で書いたように、三島由紀夫は火星の年令になると突然、別のスイッチが入ってしまうのだ。

――それは生まれた瞬間のホロスコープに刻まれている。