【520名犠牲】日本航空123便墜落事故から34年、あらためてホロスコープはどうだったか(ボイスレコーダー音声)

単独機として世界史上最悪の事故

今年も8月12日がやってきた。

忘れもしない、日本航空123便墜落事故の日である。毎年この時期、遺族が事故現場の御巣鷹山に慰霊登山をする姿が報じられる。

520名もの死亡者を出した惨劇は「単独機として世界史上最悪の事故」であり、これを上回る航空機事故は起きていない。

ここかな

そしてこの事故は、未だにその真相に対して物議を呼んでおり、ネットでも様々な見解が飛び交っている。その理由の一つとして、当時の中曽根康弘首相が「真実は墓場まで持っていく」と発言したことがある。

「なんか爆発したぞ」

1985年8月12日、ちょうど夏休み・お盆・夕方という条件が重なり、多数の乗客が搭乗していた。

乗客509名・乗務員15名の計524名を乗せた羽田発→伊丹行の日航123便は、定刻より4分遅れの18:04にスポットを離れて動き出した。そして18:12に離陸。

離陸から12分後の18:24、相模湾上を飛行中の123便の機体に異常が起こる。

ボイスレコーダーの音声では「ドーン」というような音の後、高濱機長が「まずい」「なんか爆発したぞ」と声を発し、すぐに「スコーク77(緊急救難信号)」が発せられたという。

その後飛行機がダッチロールし始め、客室では酸素マスクが降り、シートベルトの着用が促される。

18:46過ぎ、機長「こりゃダメかもわからんね」

「もーだめだー!」

やがてその瞬間はやってくる。

「頭(機首)上げろ!」「頭上げろ!」「パワー」「パワー!」「フラップ!」「頭上げろ!」「ストールするぞ!」

18:56過ぎ、機長「もーだめだー!」

・・・(衝撃音)

↓公開されたボイスレコーダーの音声(異常発生から墜落の瞬間まで)↓

高濱機長への嫌がらせ

このボイスレコーダーの音声がTVで初放送されたのは、事故から15年後の2000年8月8日、TBSの報道番組「ニュースの森」だった。これにより、あらためて123便の中で何が起こっていたかを知らされた。

高濱機長(当時49才)は当然この事故で亡くなっているが、事故直後、マスコミや世間から叩かれまくり、自宅には嫌がらせの電話が凄まじかったという。何年もの間、それに耐えなければならなかった家族の苦しみは、想像を絶するものがあったと思う。

しかしこのボイスレコーダーを聞く限り、高濱機長は30分以上もの間、乗客やクルーの命を助けようと最後まで死力を尽くしていたことが伺える。

そして事故から15年かかって、ようやくその真実の姿が証明された。

高濱機長のホロスコープ

以前から、この事故に関してさまざまな関連ホロスコープを見ており、いろいろ思うところはあるし書きたいこともあるが、今回は高濱機長のホロスコープを取り上げてみる。

高濱雅巳機長

ボイスレコーダーでも分かる通り、高濱機長は搭乗者の命を守るために最後の一秒まで頑張られた。その精神はリスペクト以外の何ものでもない。

ただ、機長のホロスコープはなにかが起こる暗示を抱えていたようにも思える。あくまで可能性の話だが、たぶんそれは、限界を超えたものとして襲いかかってくるのかもしれなかった。機長のような崇高な精神を持ってしても、それはどうしようもなかったカルマのようなものだったか。

もちろん、高濱機長と他の関連ホロスコープとのネガティブな相性もあったと思う。残念だったと言うしかない。

特に民営化以前の日航のホロスコープはなかなかのものがあったのでは。山崎豊子氏が「沈まぬ太陽」で題材として取り上げるだけのことはある。

いずれにしてもあれだけ頑張られたにも関わらす、事故後、高濱機長に集団ヒステリーのように非難の声が集まったのも、そうしたエネルギーが関係していただろう。

名誉の回復のタイミング

その後ボイスレコーダーが「ニュースの森」で放送され、高濱機長の名誉が回復した2000年8月は、この図で地位が上がるドンピシャのタイミングだった。

死してなお、ホロスコープが影響し続けた例だ。

高濱機長の遺体は、下顎と数本の歯だけしか見つかっていないという。

日本航空123便墜落事故から35年、今も残る不思議

2020年8月12日
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