ダイアナ妃のメモが再び脚光
そのミステリアスともいえる非業の死が、今だに物議を呼ぶダイアナ妃。
このたびイギリスのチャンネル4が、新たな4部構成のドキュメンタリー番組「The Diana Investigations」を公開するという。
ダイアナ妃は1995年10月、弁護士のビクター・ミシュコン卿に「交通事故の計画を恐れている」と伝えていたようです。
その2年後の1997年8月31日、実際にパリのトンネルで事故死しました。36才でした。
ミシュコン卿はダイアナ妃が語った内容をタイピングしてメモとして残し、ロンドン警視庁に渡していたという。しかしこのメモは、ダイアナ妃の事故を調査していたフランス警察には6年間渡されませんでした。
こういうのが、この山羊座時代の終わりに出てくるのは興味深いです。私は7月29日に当ブログで「天体配置が過去を掘り起こすフェーズに入った」と書いています。
See an exclusive clip from the new Discovery+ docuseries “The Diana Investigations” about the infamous “Mishcon Note,” in which Lady Di worried she would die in a car accident.https://t.co/NOu2a6i7zr
— The Daily Beast (@thedailybeast) August 17, 2022
ミシュコン・ノート
このメモは「ミシュコン・ノート」と呼ばれています。
ミシュコン・ノートが注目されたのは、ロンドン警視庁のジョン・スティーブンス長官が指揮したダイアナ事故に関する調査「オペレーション・パジェット」の832ページからなる報告書でした。
それによると1995年10月30日、ダイアナ妃、ミシュコン卿、ダイアナ妃の個人秘書パトリック・ジェフソン氏との間で開かれたプライベートな会合で、
”事前に計画されたブレーキの故障など、車の何らかの事故によって排除されるか、それによって精神のバランスを崩したと見なされるほどのダメージを負うような努力がなされている”
とダイアナ妃は語ったといい、この内容が記録されました。
実はこれと同じような内容が、ダイアナ妃の執事ポール・バレル氏が保存したメモにも残されていたことが発覚しています。このメモも同時期の1995年10月に書かれており、後に専門家が筆跡鑑定をした結果、ダイアナ妃の直筆であることが確認されました。
ただこちらのメモの方は「夫が事故を計画している」と、さらにエグい内容になっています。ダイアナ妃は当時かなり事故の計画を気にしていた様子がうかがえます。
バレル氏が保管したメモの詳細内容↓
被害妄想に取り憑かれていた?
ミシュコン・ノートは、スティーブンス長官の前任ポール・コンドン氏によってロンドン警視庁の金庫の中にしまわれたという。そのまま6年以上保管されたようです。
そんな折、バレル氏のメモが出てきたことにより、ロンドン警視庁はミシュコン・ノートをどうするか弁護士に相談したという。
結局、ダイアナ妃の死から6年経った2003年12月30日、ミシュコン・ノートがロンドン警視庁から検死官に送られました。
スティーブンス長官がノートの存在を知ったのは、オペレーション・パジェットを担当することになってからだという。
スティーブンス長官によると、当時ミシュコン卿はダイアナ妃が被害妄想に取り憑かれていると思っていたといい、このノートを重要視していなかったと述べています。
ミシュコン卿は2006年1月に亡くなっていますが、スティーブンス長官は亡くなる1ヶ月ほど前に面会した際も、ミシュコン卿の考えに変わりはなく、ほとんどノートの内容を信用していなかったという。
「陰謀は100%なかった」と結論づけ
オペレーション・パジェットには、3年の歳月と370万ポンドの費用が費やされました。
ありとあらゆる事を調べ、中にはダイアナ妃が妊娠していたかを調べるため、胃の内容物や月経の周期を調べたりもしたという。これはこの事故で亡くなったドディ・アル=ファイド氏の父モハメド氏が、ダイアナ妃が妊娠していたと主張していたからです。
オペレーション・パジェット担当捜査官は常に何者かに尾行されていたため、捜査本部はセキュリティーを厳重にし、電話回線や周囲の注意などスパイ対策を怠らなかったと言われています。
そのプレッシャーはハンパなものではなく、親しい家族や友人にも自分の仕事について話すことができず、孤立することを余儀なくされた捜査官もいるという。
結局オペレーション・パジェットは、2008年4月7日に「ダイアナ妃殺害の陰謀は100%なかった」「運転していたアンリ・ポールの飲酒運転による事故」と結論づけました。
またウィリアム王子とヘンリー王子は、母親の事故死から9年経った2006年12月に、スティーブンス長官から直接説明を受けるまで事故の詳細を知らなかったようです。
1995年はポイントだった
ミシュコン・ノートやバレル氏のメモなどが書かれた1995年は、ダイアナ妃にとってポイントとなる年です。
この年に、あのBBCの独占インタビューが行われました。ダイアナ妃はインタビューの中で、夫チャールズ皇太子の不貞、自分の浮気、産後うつ、過食症などについて赤裸々に語っており、全世界101ヶ国で放映されました。
「この結婚生活には3人いたから、少し窮屈だった」という言葉は、物議になりました。
このインタビューが放映された翌年、チャールズ皇太子とダイアナ妃は正式に離婚しました。
さらにその翌年、ダイアナ妃は事故死しました。
ダイアナ妃のインタビューに成功したマーティン・バシールという当時無名だった記者は、銀行取引明細を偽造してダイアナ妃に近づいています。このことも、後に問題になりました。
放映したBBCは、ウィリアム王子とヘンリー王子に謝罪しています。
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