中学3年生の時に受けた集団レイプ
国際政治学者の三浦瑠麗氏が出版した自伝『孤独の意味も、女であることの味わいも』の中で、衝撃的な告白をしていることが話題になっている。
その中で長女を死産したことや、彼女が中学3年生のときに受けた「集団性的暴行被害」について赤裸々に綴っているのは、かなりのインパクトだ。
14歳、中学3年生のとき、小説を読みながら帰宅していた三浦さんは、後ろから寄ってきたバンに乗っていた男たちに声をかけられた。
『あとはあまり覚えていない。覚えているのは痛みと、死ぬのだろうな、という非常にリアルな感覚だけだ。私の頸に手をかけたそのうちの一人ののっぺりとした眼つきが醜くて気持ち悪く、せめてもっと楽な死に方をさせてもらいたかった。少なくとも一人は知っている顔だったと思う。
殺風景な新幹線の高架下で、ほらよ、と放り出されて、私はバッグとスカーフを胸に抱えて家までよろよろと歩いた。自分がどんなにぼろぼろでも、いつも通りの田舎の風景は微塵も私の心に寄り添ってはくれなかった。
きちんと閉まった正面の門を避けて庭の戸口から入り、母が茅ヶ崎の庭から持ってきて植えたあんずの木の下で、隠れるように外水栓の水で顔と手を洗った。制服を脱ぎ捨てたのち、手負いの狼のように私は炬燵の中で唸った。下腹部の痛みが尋常ではなかった。手でさわると血がついた。』
(「初めての経験」より抜粋)
生まれ持った寄せつける何か
失礼ながら以前から三浦氏を拝見するたびに、国際政治学者としての知的な物言いと、一方で妙な女っ気のようなものがあるという印象があった。もちろん変な意味でなく彼女の個性として、そのインテリ性と艶気という取り合わせのミスマッチというか――それがある種、彼女の個性にもなっていたかもしれないが。
それがこの記事を読んで、さらに彼女のホロスコープを見て、理解できた。
ビジュアルという単なる表面的なものではなく、漂ってくる雰囲気のようなものかもしれない。それはおそらく後天的に身につくものではなく、生まれ持った個性なのだろう。例えば整ったビジュアルの女性でも、オーラとしてそういうものを全く感じさせない人もいる。
ある日突然牙をむく
彼女はそういう資質を持って生まれてきていて、それがある日突然、彼女自身に牙を向けてきたということだね。それは彼女が襲われたときのホロスコープ状態を見れば、一目瞭然だ。
つまりそのとき、過激な男を引き寄せやすかった。暴力と犠牲、そんなワードを感じさせるものだ。もっと言えば、彼女が潜在的に持っているスイッチのようなものだった。日頃はオフになっているそのスイッチが、オンしてしまった。もちろん本人に自覚はなかっただろう。
今となってはそのエネルギーは、彼女が叩かれやすい一因も兼ねているかもしれないが。
あえて告白したのにはホロスコープ的要因が
ただそのハードな体験は、彼女のその後の人生に活かすべきという暗示がある。今回、このようなレイプ体験を記すのに当たって、周囲の反対の声があったという。
ある男性の友人は、私が体験を書いたことを知って「出版するべきじゃない」と言いました。
被害者の烙印を捺され、今後それをずっと背負って仕事をして行くのは不利になるのではないか、娘がかわいそうじゃないか、と。心配をしてくれたことには愛情を感じました。実際、自分の大切な人が世間からそういう目で見られるのは耐えられないという思いもあったのかもしれません。
同上より
しかし彼女のホロスコープからすれば、これを書くのは必然の流れだったのではないかと思う。もちろん世の中にはそれが出来ない人もたくさんいるし、どちらが正解かはわからない。当然、書くことによって一定のリスクが生じるわけで。しかし彼女は生まれ持った個性として、それを書くという選択肢に至っただろう。
そんなことを感じた。
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