肺がんで死去
元TBSアナウンサーで退社後フリーで活動していた小島一慶氏が亡くなった。肺がんだったという。
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TBSの深夜ラジオのパーソナリティーなどを務め、1970~80年代にかけて絶大な支持を集めたフリーアナウンサーの小島一慶さんが23日、肺がんのため、都内の病院で死去した。75歳。長崎県出身。
— Yahoo!ニュース (@YahooNewsTopics) April 25, 2020
深夜ラジオで人気に
小島一慶氏は1968年にTBSに入社、1970年から深夜ラジオの『パックインミュージック』のパーソナリティーになり、その軽快な喋りから人気となった。当時はニッポン放送の『オールナイトニッポン』、文化放送の『セイ!ヤング』とともにラジオ深夜放送の全盛期で、各番組がしのぎを削っていた。小島氏は1977年まで週一のパーソナリティーを担当した。
その後もテレビやラジオで活躍し、1984年から先輩アナの久米宏氏の後を引き継いで人気クイズ番組「ぴったしカンカン」のメイン司会になった。
小島氏はTBSに骨を埋めるつもりだったというが、1990年に営業部へ移動の打診があったことがきっかけで、TBSを退社し以後フリーアナとして活動している。
実はTBS在籍中の1982年にスタートしたフジTV『笑っていいとも!』のテレフォンショッキングの司会は、当初、小島氏にオファーが来ていたと告白している。
実は、それまでにも2回、フリー転身の誘いは受けていたという。
「そのたびに断っていました。僕の心の中では、TBSに骨をうずめようという思いが強くありましたから。もうずいぶん前の話ですから言いますと、82年にスタートしたフジテレビの『笑っていいとも!』にテレフォンショッキングってあったでしょう。あの司会は当初、僕のところに依頼がありました。というのも、友達の友達は~と友人を紹介し合うスタイルは、僕のラジオ番組のヒット企画で、それをテレビでもやりたいというわけだったんです。ただ、当時の僕は独立する気などありませんでしたので、話を蹴ってしまった。それで司会がタモリさんに回ったみたいです」
うーんその後の人生を左右してしまったか。
女性問題
独立しフリーになった後、テレビ朝日と専属契約を結びキャリアは順調かに見えた。
しかし翌年、写真週刊誌「FOCUS」に小島氏の女性問題が報じられた。このとき小島氏は朝のワイドショー番組『モーニングショー』のメイン司会が決まっていたが、急遽局アナだった渡辺宜嗣アナに変更された。
『モーニングショー』は1964年から続くテレビ朝日の老舗番組で、その後タイトルが『スーパーモーニング』~『モーニングバード』と変遷して現在も続いている。
ちょうど小島氏の起用が決まる以前は『モーニングショー』が低迷していた頃で、1991年4月からリニューアルで小島氏のメイン司会が決定し、テコ入れをしようとしていた矢先だった。
この騒動で小島氏は、他に出演していたテレビ朝日の別のレギュラー番組も降板し、さらに専属契約も解除されることになってしまう。
これをきっかけに小島氏は謹慎をし、復帰した後はラジオの番組や『どうぶつ奇想天外!』のナレーションなどで活動していた。
ところが2000年代に入り婦女暴行容疑で刑事告訴されていたことが発覚し、『どうぶつ奇想天外!』など出演していた番組を降板、所属事務所も退社している。その後示談が成立し、告訴は取り下げられている。
小島一慶氏
母子家庭に育ち子供時代は貧しかったという。母が働き祖父母に育てられたが、祖父が大酒飲みで暴れて危険を感じることもあったという。それはこの図にも暗示があるが。それも含めてこのホロスコープはやはり、紆余曲折は避けられない感じだよね。
TBS時代に比べ、女性問題以後のキャリアに寂しさを感じるが、それもそういうことだろう。あの軽快な喋りからは告訴など想像もできないものだったが。せっかくの才能を持ちながら残念だ。
告訴以後はすっかり名前を聞く機会がなくなっていたが、久々に聞いたのがこの話題なのは残念。
ご冥福をお祈りします。
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