『オッペンハイマー』がアカデミー賞を受賞
3月11日に行われた第96回アカデミー賞で、『オッペンハイマー』(クリストファー・ノーラン監督)が、作品賞、監督賞、主演男優賞、助演男優賞、撮影賞、編集賞、作曲賞の7部門を受賞したという。
物理学者のJ.ロバート・オッペンハイマー氏は、第二次世界大戦中に原爆を開発したマンハッタン計画のリーダーを務めた「原爆の父」として知られる人物です。
時まさに水瓶座時代に移るタイミングで、このテーマがピックアップされたのは何かの暗示かもしれない。
というのも、この作品の原作であるオッペンハイマー博士の伝記『アメリカン・プロメテウス』は2005年に発刊されて以来、15年にわたって映像化の企画が持ち上がっては消えてきたという。
権利を購入したJ・デヴィッド・ワーゴ氏は、何度も企画を持ち込んだがうまくいかなかったようだ。そのたびに権利を更新し続けなければならなかった。
しかし水瓶座時代が近づくにつれ、そのチャンスは巡ってくる。
2020年にクリストファー・ノーラン監督に映画のアイデアを持ち込んだことで、それは実現することになった。俳優のジェームズ・ウッズ氏を介してプロデューサーのチャック・ローベン氏と結びつき、最終的にノーラン監督にたどり着いたという。
Congratulations to the #Oppenheimer team for winning 7 @TheAcademy awards, including Best Picture. Experience the movie streaming on Peacock. #Oscars pic.twitter.com/LUCz5VbDBH
— Oppenheimer (@OppenheimerFilm) March 11, 2024
オッペンハイマーを知らない若い世代
一説によると「オッペンハイマー」の名前を聞いたことがあるアメリカの若い世代はほとんどいないのだという。つまり彼らの世代の中には、この作品によって原爆開発のストーリーを知ることになる人もいるでしょう。
それは必ずしもポジティブな事ではなかった。
しかも現在進行形で戦争が行われている。これから起こりそうな地域もある。そしていつどこで核攻撃が行われても不思議ではない。
クリストファー・ノーラン監督作品ということで、(SNS上の)若者の間での話題は非常に大きかった。
この映画は歴史的に正確だ。人々は実際に起こったことを歴史的に学ぶだろう。教育的ツールとして重要だ。
マンハッタン計画に携わった人々に、プロジェクトについて直接語ってもらいたかったのです。
その意味で原子力と結びつく水瓶座時代がこの映画を呼んだのかもしれません。
J.ロバート・オッペンハイマー
ドイツから移住したユダヤ系移民の両親の元で1904年にニューヨークで生まれたロバート・オッペンハイマー氏は、6カ国語を話すほど語学に堪能だったという。
ハーバード大学に入学して化学を専攻し1925年に首席で卒業した彼は、卒業後にイギリスに渡ってケンブリッジ大学に入り、その後ドイツのドイツのゲッティンゲン大学で理論物理学を学び、23歳で博士号を取得した。
時代はまさに量子論と相対性理論が注目を集める中で、オッペンハイマー氏の研究は電子、陽電子、宇宙線などの素粒子のエネルギー過程に注がれていたという。また、中性子星やブラックホールについても画期的な研究を行ったようだ。
アメリカに戻り、1929年からはカリフォルニア大学やカリフォルニア工科大学で教鞭を振るった。
1939年に第二次世界大戦が始まると、アメリカは1941年に連合国側に加盟した。1942年には原子爆弾開発を目指す「マンハッタン計画」がスタートすることになる。
その計画でオッペンハイマー氏はリーダーとして任命されることになった。
マンハッタン計画
ナチス・ドイツが先に核兵器を開発することを恐れた亡命ユダヤ人物理学者レオ・シラード氏らは、同じ亡命ユダヤ人物理学者アルベルト・アインシュタイン氏の協力を得て、ルーズベルト大統領に核開発を促すを書簡を送った。有名な「アインシュタイン=シラードの手紙」です。
これが発端となり、米国は「マンハッタン計画」と呼ばれる核開発プロジェクトをスタートすることになった。
計画のリーダーに選ばれたオッペンハイマー氏は、ニューメキシコ州ロスアラモスに研究所を設置することを提案した。
ロッキー山脈の森林に囲まれた広大な敷地に、密かにロスアラモス国立研究所が建設された。そこには2100棟もの施設が立ち並び、科学者・エンジニア2500名を含む1万人もの所員が勤務したという。
オッペンハイマー氏が率いるマンハッタン計画には、21名ものノーベル賞受賞者が関わり、後に広島市に投下された「リトルボーイ」、長崎市に投下された「ファットマン」が開発・製造された。
人類史上初の核実験「トリニティ」
人類史上初の核実験は1945年7月16日に実施された。この実験は「トリニティ」と呼ばれ、同じくニューメキシコ州ソコロの南東48キロメートルの砂漠の中で行われたという。長崎に投下された「ファットマン」と同型のものだった。
この場所を実験場を選んだのは、人里離れていて平坦で、風が予測しやすかったからだという。またこのプロジェクトは極秘に進められたため、周辺住民には警告が出されなかった。
実験の日、160マイル(約257キロ)以上離れた場所でも地鳴りと明るい光が確認できたが、アメリカ政府はこれを隠そうとしたようだ。
トゥラローサ盆地には、家畜を飼い、庭や農場で手入れをしながら、その土地で暮らす農村の人々が住んでいた。彼らは貯水槽や溜池から水を引いて生活していた。
爆発後の数日間、あらゆるものに降り積もった微細な灰が、世界初の原子爆弾の爆発によるものだとは、現地の住民達は知らなかった。
そのとき被爆した住民たちは、後に癌と闘うことになった。
「彼らは科学や科学者たちを美化し、私たちのことには触れない。そして何を知っているというんだ? 恥を知れ。」
‘Oppenheimer’ stirs up conflicted history for Los Alamos and New Mexico downwinders /AP
栄光は続かなかった
オッペンハイマー氏は原爆を開発したとして一躍有名になり、その実績は賞賛を浴びた。
しかし、その栄光の日々は長く続かなかった。
広島・長崎に原爆が投下された後、ハリー・トルーマン大統領に会見したオッペンハイマー氏は「大統領、私は自分の手が血塗られているように感じます」と述べたという。
トルーマン大統領はこれに憤慨し、オッペンハイマーのことを「泣き虫」と罵り、二度と会うことは無かった。
オッペンハイマー氏はそれを機に、水素爆弾などより強力な核兵器開発に反対するようになったという。水爆反対を主張するあまり、政府側の悩みの種となっていった。
最終的には当時のアイゼンハワー大統領の元に、「オッペンハイマーがソビエト連邦の共産党とつながりがある」と告発する手紙が届いた。
オッペンハイマー氏は公聴会を要求したが、その結果、彼のセキュリティ・クリアランス(機密アクセス)は剥奪されたという。
オッペンハイマー氏がソ連に協力している事実はなく、手紙は彼を貶めようとした謀略だった可能性がある。オッペンハイマー氏の死後2022年になって、セキュリティ・クリアランス剥奪する決定は取り消されたという。
しかしアメリカ共産党(CPUSA)との関わりは疑われた。妻のキャサリン・オッペンハイマー氏は以前にCPUSAと関わりがあったし、オッペンハイマー自身「私は共産主義運動と関係があった」と述べている。
恋人ジーン・タトロック
上に書いたように妻はキャサリン氏だが、結婚する前オッペンハイマー氏はスタンフォード大学医学部の学生だったジーン・タトロック氏と交際していた。
オッペンハイマー氏とタトロック氏は1939年の共産主義者のパーティーで知り合ったという。タトロック氏は熱心な共産党員だった。それも共産党疑惑の一つになり、公聴会で不利な証拠として用いられた。
タトロック氏は自分のセクシュアリティ(同性愛)に悩んでいたようだが、2人は熱烈な交際をしたと言われており、結婚に近づくまでになったという。
またタトロック氏は共産党員だったため、エドガー・フーヴァー率いるFBIに監視されていた。彼女と付き合っていたのが国家機密であるロスアラモス研究所のリーダーのオッペンハイマー氏だったことで、さらにFBIが警戒を強めただろうことは容易に想像できる。
しかもオッペンハイマー氏もFBIに監視されていたようだ。共産党員と親しくしていたからだ。オッペンハイマー氏は厳重な監視下に置かれ、自宅やオフィスには盗聴器が仕掛けられ、電話は盗聴され、郵便物は開封されていた。
タトロックの死は自殺か、他殺か
2人が最後に会ったのは1943年6月だと言われている。この日オッペンハイマー氏はロスアラモス研究所を離れ、彼女と一夜を共にしたというが、その間エージェントが監視していたという。
1944年1月5日深夜、タトロック氏は自宅アパートの浴槽で死んでいるところを父親に発見された。無署名のメモが残されており、その後の検視で「自殺、動機不明」という判断が下された。
検死報告書によれば、彼女は死の直前に満腹の食事を取っていたことがわかった。また睡眠薬が検出されたが致死量ではなかったという。またクロラール水和物の痕跡も見つかったが、アルコールは飲んでいなかった。
死因は「肺うっ血を伴う急性肺水腫」、つまり浴槽での溺死と記録された。
しかし上に書いたようにタトロック氏はFBIに監視されていた。その後彼女がマンハッタン計画のために働く諜報員によって殺害されたという陰謀説が高まった。
なぜならマンハッタン計画は国家機密であり、共産国には絶対に知られてはならない計画だったからだ。
晩年
晩年、オッペンハイマー氏はアメリカ領ヴァージン諸島で暮らしたという。妻と娘と共にセーリングに明け暮れたようだ。
一方で新たな核兵器の開発には反対の姿勢を貫いており、公的な場からはほとんど遠ざかっていた。執筆や講演は行っていたものの、政治的な影響力は失っていた。
1960年9月に来日した際、原爆開発について「後悔はしていない。ただそれは申し訳ないと思っていないわけではない」と答えている。
ジョン・F・ケネディ大統領はオッペンハイマー氏にエンリコ・フェルミ賞を与える決定をしたが、暗殺されてしまったために後継者のリンドン・ジョンソン大統領が授与した。
オッペンハイマー氏は1965年に咽頭がんと診断され、放射線治療と化学療法を受けたが、1967年2月18日に62歳で亡くなった。
死の2年前のインタビューでは、原爆開発について「大義があったと信じている。しかし、科学者として自然について研究することから逸脱して、人類の歴史の流れを変えてしまった。私には答えがない」と述べた。
※当ブログでは主流メディアでなかなか報じられず、検索されない情報を取り上げています。ぜひブックマークなどをご利用ください。またあなたの大切な人や、教えたい人にお知らせ・共有してください。
詳しくは→こちら