ブルース・リーの命日
本日7月20日はブルース・リーの命日で、生きていればもう79才だったかと思うと隔世の感がある。ただ彼の死はその不可解さから憶測を呼び、死因は今だにハッキリしていない。
ブルース・リーは1973年7月20日に32才で突然亡くなった。まだ世界中に名前が知られる前だった。
なぜなら、彼を世界的に有名にした映画『Enter the Dragon(燃えよドラゴン)』の封切り前だったからだ。つまりブルース・リーは、世界中で称賛を浴びる自分の姿を知らずに旅立った。
考えてみれば皮肉なことだが、それもブルース・リー伝説に拍車をかけていると思う。
生い立ち
ブルース・リー(李小龍)は、アメリカのサンフランシスコのチャイナタウンで生まれている。父親が有名な広東演劇の役者で、1年間のアメリカ公演ツアー中のことだった。生後3ヶ月ほどして香港に戻ったようだ。
父親が有名俳優だったため、香港では子供の頃から何本かの映画に子役として出演している。
しかし成長するにつれ、とんでもない暴れん坊になっていったようだ。ストリートファイト(つまりケンカ)に明け暮れ、見かねた両親が太極拳を習わせた。またボクシングでもトーナメントで優勝したりしている。
ある時、町の不良グループとのケンカに敗れたことがきっかけで、イップ・マン(葉問)に詠春拳の手ほどきを受けるようになる。このイップ・マンの伝記的映画は、ドニー・イェン主演などで数々映画化されているが、イップ・マンを世界的に有名にしたのはブルース・リーの功績もある。
これも後に、彼の死因に対する憶測の一つとなる。
「俳優の不良息子」
しかしストリートファイトは減るどころか増える一方で、「俳優の不良息子」とまで呼ばれるようになっていき、1959年にケンカで警察沙汰になった。父親は「次にケンカをしたら刑務所に入れなければならくなる」と警察に言われ、このままではまずいと、サンフランシスコに住んでいる姉アグネスの元に送ることにした。
渡米後シアトルに移ったブルース・リーは、ワシントン大学の哲学科に進学する。「考えるな、感じろ」など彼の台詞がいちいち哲学じみているのは、そういうベースがあるからだと思う。
シアトルでは学生をする傍ら、自身の道場を開設し拳法を指導した。そこに道場生として入ってきたスウェーデン系イギリス人女性が、後に妻になるリンダ・エメリー。
1964年に大学を中退し、カリフォルニア州オークランドに移って第二の道場を開く。この後、独自の流派「截拳道(ジークンドー)」を追求することになっていく。
1966年に行われた「ロングビーチ国際空手選手権大会」でデモンストレーションをした映像がプロデューサーの目に止まったことがきっかけで、TVのアクションドラマ『グリーン・ホーネット』のカトー役に抜擢されることになった。
しかし『グリーン・ホーネット』が終了後、企画や脚本を売り込むものの採用されることはなかった。当時のアジア人に対する壁があったのでは。そしてブルース・リーは香港に戻ることに。
香港で大スターに
香港に戻り、1971年に公開された主演映画『ドラゴン危機一発』が大ヒット、その後も1972年『ドラゴン怒りの鉄拳』同じく1972年『ドラゴンへの道』と立て続けにヒットし、大スターになった。ただしこの時点で、まだ香港以外での知名度はほぼないに等しい。
4作目の『死亡遊戯』の撮影中、奇しくもハリウッドから声がかかる。ワーナーブラザーズが『燃えよドラゴン』を企画し、主演に抜擢された。このため『死亡遊戯』の撮影はいったん中断された。
『燃えよドラゴン』の撮影が終了し、香港に戻ったブルース・リーは『死亡遊戯』の撮影を再開、その打ち合わせの段階で死亡してしまう。『燃えよドラゴン』が公開される前だった。
死亡
予兆はあった。
香港に戻ったブルース・リーは、1973年5月10日スタジオで『燃えよドラゴン』の音声吹き替えしていた時に突然倒れ、意識不明で病院に搬送されている。その後意識を取り戻し数日で退院しているが、脳浮腫と診断された。
そして約2ヶ月後の7月20日の午後、打ち合わせ後に女優のベティ・ティン・ペイ(丁珮)の自宅に向かい、そこで頭痛を訴えた。19:30ごろ丁珮が処方されていた鎮痛剤を飲み横になると、そのまま昏睡状態になったという。救急車で病院に運ばれたが、死亡が確認された。
その後死因が2ヶ月前に倒れたときと同じ病名=脳浮腫と発表された。ブルース・リー自身が常用していた鎮痛剤と、丁珮が与えた鎮痛剤の副作用によりアレルギー反応を起こしたとされる。ブルース・リーの脳は1,400g→1,575gと13%増えていたという。
死因にさまざまな憶測
この死因に対して議論が巻き起こり、法廷にまで持ち込まれることになった。腹上死・他殺・自殺・陰謀などいろいろな憶測が飛び交ったが、結局司法の判断は「死因不明」と発表された。
その後も様々な説が取り沙汰されている。
筋弛緩剤による副作用、癲癇の発作、日本の反社会組織の仕業、中国拳法を他民族に教えたことへの報復など。
またアグネス・チャン氏がTV番組で「ブルース・リーの本当の死因は香港の芸能人なら誰でも知っているが、命が惜しいから言わない」と発言しているのも、こうした憶測を呼ぶ一因になっているかもしれない。
『燃えよドラゴン』公開
いずれにせよ死後、『燃えよドラゴン』が公開され、空前の大ヒットとなる。ちなみにこの映画に若き日のジャッキー・チェン、サモ・ハン・キンポー、ユン・ピョウらがエキストラ出演していたのは有名な話。
撮影途中だった『死亡遊戯』も、代役や過去の映像などを使ってなんとか完成し公開した。ブルース・リーの出演は最後のクライマックスのアクションシーンの部分のみだが、そこで彼が着ていた黄色のジャンプスーツ(つなぎ)は、映画を見たことがない人でも知っているだろう。
ブルース・リー
ホロスコープで目につくのはアセンダントにある射手座5度の太陽。個人的にこれがブルース・リーのイメージだ。これが8ハウス獅子座4度の冥王星とアスペクトしているのが彼っぽい。この太陽は香港に移ると4ハウスになる。映画会社ゴールデン・ハーヴェストを設立したレイモンド・チョウと契約し、立て続けにヒットさせたのはまさにホームグラウンドを見出したかのようだ。
まあこの図の荒れたエネルギーを、武道という道に活かしたのは良かったと思う。
最後、太陽にトランジットの海王星が重なった時に亡くなっているが、それはその後の死因不明に現れているかな。謎の死という気がしないでもない。
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